元参議院議員 田中しげる

しげるレポート | 田中しげるの活動報告ブログ

[会議録]田中茂 憲法審査会(参議院) 2015年3月4日
会議録 2015/03/04

田中茂189-参-憲法審査会-2号-2015年03月04日-初版

田中茂君

ありがとうございます。

先ほどから両参考人にいろいろ質問をさせていただいておりますが、皆さんから、同じことを繰り返したくはないものですから、私、実は今回初めての憲法審査会での発言ともなりますので、私の考えを若干ちょっと言わさせていただいて、お二人に質問をさせていただきたいと思います。

もう日本国憲法成立から七十年くらい経過しましたが、戦後日本の発展に対して現憲法が果たした役割は私自身高く評価しております。

しかし一方で、先ほど来いろいろとお話はされておりますが、時代の変化とともに国民が疑問や曖昧に思う箇所が多数明らかになったことは事実であります。

現憲法の基本理念である主権在民、基本的人権、平和主義、国際協調など、確かに尊重すべき点は踏襲して、現在の国情、世界情勢の変化に合わせて疑問点を明確化し、課題を整理した上で国民の意思を憲法に反映させるときが私はようやく来たと、そう思っております。

二十一世紀も十五年目に入った現在、日本を取り巻く環境は激変しております。

そういう中で、日本は長らく憲法とは変えるものではないと、そういう意識が強かったように思います。

がしかし、憲法の条文を変えることは珍しいことではありません。

先週ですか、ドイツ、イタリアに視察に行った際の報告がありましたが、皆さんのこの憲法審査会の中でも。

ドイツ六十回、イタリアも十六回憲法を改正しております。国民の意識もそのように変わりつつあると私は考えております。

特に、冷戦構造が崩壊し、各国、地域、自分、己がアイデンティティーが主張される時代となっております。

宗教間、民族間の紛争やテロが世界各地で起きているのもそれが理由の一つではないかと思っています。

各個人の己のアイデンティティーを問われるなら、自らが属する国家のアイデンティティーを知る必要があり、これまでの日本ではそれが希薄であったと私は思っております。

以前、中曽根康弘元首相が、現憲法の出生は言わば切り花だから、非常に鮮やかできれいなように見えるが、結局、自分の根で水を吸い上げて幹を通して葉を養い自分の花を作っていない、むしろ内閣法制局や裁判所の解釈とか便宜主義で造花みたいに長らえてきた要素が多い、まさにバーチャル憲法だと、そのようにおっしゃっています。

その表現を借りるとすれば、現憲法は既に造花にもならず、みずみずしさを失っているのではないかと私は思っております。

憲法とはそもそも命が限られた切り花のようなものではなく、日本人が日本の土地に種をまき、根を広げて葉を増やし、花を咲かせていけるような大きな木のようなものではなくてはならないと私は思っています。

私が思う次の世代にふさわしい憲法改正とは、日本人が初めて自らの手でつくる、アイデンティティーを自覚できるものであります。

憲法は当然ながら国家権力を、先ほどからおっしゃっていますように、当然ながら国家権力を制限する機関と同時に、国民の自由を認めるが、その国民の自由も、あくまで義務を伴う自由であると思います。

しかし、本質的に国家を支えているというものは、先ほど百地先生がおっしゃっているように、突き詰めれば私たち個々人の国家観や国家意識の醸成であって、それは個人の生命や時間軸を超えて継続する国家という集合体に対する歴史性の自覚に裏付けられたものだと私は思っております。

国家とは常に特定の歴史性と文化性を背負った共同体なのであって、まさにそれから国民としての自由の気概が生まれてくると思っております。

戦後日本は荒廃した焼け野原から不死鳥のごとく立ち直り、驚異的な復興を成し遂げました。

しかし、それと引換えに国家意識は国民から薄れ、敗戦のトラウマから国民は国家の名誉も国民としての誇りも感じなくなりました。

日本国民に忘れかけられている自由の気概、国民としての誇りを覚醒させることが我々子孫に対する私たちの、今の私たちの責務であると思っています。

日本が長年にわたり平和を維持して偉大な経済発展を遂げたことには、憲法のみならず日米安全保障条約が貢献しており、安保条約による米国の、米軍の保護の下に九条が存在している。平和を維持したのは九条の力だとよく言われておりますが、むしろ敗戦による厭戦思想と、それに続く高度経済成長により、何も軍事などに頼らなくても平和が維持できるという国民意識が形成されたからであり、この平和維持は憲法と日米安保条約が一対になって得られたものだと思っております。

しかしながら、かつてのような経済成長が見込めず、グローバル化が進み、一国のみでは対処できない問題に各国、地域の協力で解決を図らなければならない時代には、この外交上の所産である日米安保条約よりも、確かな日本の自主性、自体性、自由の気骨を備えた憲法の精神が必要であって、時代の要請に即した憲法の改正を考え、その力となること、私自身そう思っております。

そこで質問でありますが、時間もありませんので、これは憲法とは何かということなので、先生に憲法に対する基本的な考え、先ほど来ずっとおっしゃっていましたが、それをお聞かせいただければ有り難いと思います。

参考人(百地章君)

ありがとうございます。

非常におっしゃること、納得するところがたくさんありまして、ありがとうございます。

憲法とはそもそも何かという、これまでお話ししてきたことでありますけれども、特に先ほど、例えば、いわゆる先進国の中には余り歴史とか伝統なんてわざわざ掲げていない国が多いんじゃないかという、そういう水島参考人のお話がありました。

確かにそうかもしれません。

しかしフランス憲法では、前文であのフランス革命に対する哀惜の念というものをちゃんと冒頭において掲げているわけですね。

常にフランス革命というものをその誇りとし、その理念に立ち返ることによってフランスというものを形成してきたんだということがそこに示されているわけでありまして、それはそういうところもあります。

また、特に冷戦後誕生した国々の中には、むしろ歴史を引き裂かれたり歴史を失った国が多いから、だからあえて憲法の中に、前文にその国の歴史とか伝統をうたうことによって国家意識を醸成しようとする、あるいは愛国心というものを確立しようという、そういう意識が高いだろうと思います。

そういう意味では、明治憲法下においては、初めて近代国家が建設された中で、やはりしっかりした国民意識をつくり愛国心を養うと、歴史、伝統に対する誇りを取り戻すことによって西欧列強に対抗していこうとした、そういう志というか思いがあそこにも込められているんではないかと。

そのように考えますと、今の憲法は余りにも無国籍でありまして、前文には日本らしさはどこにも存在しません。

また、占領政策もあって、日本人の意識からは非常に国家意識とか歴史、伝統に対する思いというものが失われてきている。

そういう中であればこそ、私は、憲法前文に高らかに日本の国の国柄とか歴史、伝統をうたうことによって、日本国民にもう一度国家意識を取り戻させる、あるいは日本人としての誇りを取り戻させる必要がある。

その意味で、前文にそういう歴史、伝統、国家というものをうたうべきではないかと考えておりまして、その点全く同じであります。

参考人(水島朝穂君)

お説は拝聴いたしましたが、最後のところで、憲法についてどう考えるかということでございますが、ただ、その中でドイツのことにメンションされました。

これは、私、ドイツ憲法を専門にしておりますけれども、ドイツの憲法改正を細かく見ていきますと、実は重要な基本権であるとか民主主義の基本的なところについては変えておりません。

基本的に手続規定やEUに入るときとかでありまして、大規模改正は六八年のときの盗聴を可能にする十条改正、九八年のいわゆる室内に盗聴器を設置できる十三条の身体の自由の改正、これは違憲の基本法改正だという議論すらあるくらい、実は憲法改正への疑問という議論もあるくらいでありまして、これは実は憲法改正の限界をドイツ基本法七十九条三項は、人間の尊厳や民主制や法治国家、そういうものは変えちゃいけない。

だから、この変えちゃいけないことを具体的に書いているわけですね。

ですから、それに触れているという議論ですよね、盗聴とかそういうのができるのは。

それから、フランスの憲法の八十九条五項には、共和制は変えられない、君主制に戻せないということ。イタリア憲法の百三十九条も、共和政体はこれは触れない。

だから、憲法改正は何でもできるし、自分の思いや国柄や自分の思想や、そのときの国民のわっと盛り上がったムードで憲法に書き込むことは、実はそれぞれの憲法は慎重に避けている。避けているどころか、むしろ禁止しようとすることが普通である。

だから改正手続が高い。死刑についてだって、フランスは最終的に憲法改正で死刑廃止したのは、やはりわっと法律に残しておけばそのときの政権が死刑を復活するからという思いがあった。

いろんな意味で、権力が自ら自分を縛るというところに権力の自己抑制、自己拘束の発現があるのであって、是非、皆さん方、国家権力の重要な部分を担当されている方は、まさに今までの政治家たちの自分に対する抑制的な表現、例えば自由民主党の先輩政治家が非常に抑制的なことを言っておりますけど、私、是非、石橋湛山自由民主党第二代総裁、内閣総理大臣の岩波文庫の評論集を読んでいただきたい。

湛山は、国を滅ぼすとはどういうのかと、それは軍備の拡張という国力を消耗する考え方だと。

冷静に憲法を読み返すとき、私は日本がそのような悪路、悪い道、つまり軍備拡張で国力を消耗する道を踏んでいくことを忍び難いものを感ずると、こういうふうに言っていまして、先ほどの原稿の最後に持ってきています。

つまり、自由民主党石橋湛山元総裁、総理という方であっても、戦争を体験した上で出てくる言葉というのは、やはり国民の共通体験の上にそれぞれの体験を憲法にやはり求めている。

求めたとき慎重になる態度というのは、やはり自己に対する抑制、つまり、先ほど会長が見事におっしゃっていただきましたが、最も民主的と言われたあのワイマール憲法の比例代表制、完璧比例代表制、国会議員以外でも法律を作れる直接投票、それからいわゆる大統領の直接解散、それからプレビシット的な直接民主制、その中でヒトラーが生まれたんですよ。

だから、民主主義を徹底し、民意を圧倒的に尊重するというやり方をやってもそうやって失敗したから、そこに変えちゃいけない条文を入れてみたりとかやるわけであって、権力者が自分は何でもできると思っちゃいけない。

その逆を書いてあるのが憲法ですから、おっしゃる思いはよく、それぞれあると思いますけれども、それをどういう形に憲法に反映させるのかというところは、憲法は憲法なんだというこの議論を踏まえてやっていただければ幸いかなと思いまして、それぞれの自由な議論は決して私、さっきタブーという言葉がありましたが、九条をタブーという言い方はすごく非生産的で、私は一番、九条論で創造的な九条論、安全保障論やっているつもりで自分ではおりまして、自衛隊の解編論というのを実は昔やっていまして、サンダーバードに変えろというふうに言ったのは九二年でありまして、防衛省が二〇一三年、ポスターにサンダーバードを募集に使ってくれたんですね。

ですから、その意味でいうと、私が言っていた自衛隊がもっと愛される方向というのは決して銃を撃つ方向じゃないんだよということは、決して私は、九条はゼロか一〇〇か、制限か授権か、あるいは自衛隊完全廃止か全面軍隊かじゃないという、いろんなことをこの議論の中でやるのが憲法であって、憲法は寡黙であるがゆえにそういう自由が自由にできるんですよ。

だから、憲法に書き込まないこと、それが大事だということを申し上げたいと思います。

失礼しました。

日本に生まれ育ち、一生を過ごしたいと言える「誇りのもてる国」
ページトップへ