前参議院議員 田中しげる

しげるレポート | 田中しげるの活動報告ブログ

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胡耀邦元総書記のお墓参り
レポート 2016/09/16

私は、9月初旬に1週間ほど中国の北京と江西省に行って来ました。今回の中国訪問の目的のひとつに、昨年11月に生誕100周年を迎えた胡耀邦元総書記の墓参がありました。これは中曽根元総理からの依頼でもありました。胡耀邦氏のお墓は中国共産党の指導者が葬られる八宝山公墓ではなく、江西省の共青城市にあります。共青城はかつて自ら属した中国共産主義青年団(共青団)のメンバーが開墾に参加してできた街で、その後、胡氏が何度か訪れていた関係で、夫人の希望によりこの地に墓が建てられたとのことです。

中曽根元総理は1982年に総理大臣に就任しますが、同じ年に胡耀邦氏は中国共産党中央委員会の総書記に就任し名実共に中国のトップとなり、新たに改革開放路線と自由化路線を打ち出しました。ここから日本と中国のトップ同士の交流が始まります。中曽根元総理は「外交はつまるところ、トップ同士の友好関係である」と述べていますが、胡耀邦氏との関係もまさにそのとおりで、肝胆合い照らす仲、両家の家族ぐるみの付き合いが行われました。それは元総理の代から子の代、孫の代へと今日なお続いています。

1985年8月15日の終戦記念日に、当時の中曽根総理は総理大臣として戦後初めて靖国神社を公式参拝しました。中国では国民の強い反対があったのですが、胡耀邦総書記は柔軟な対応を示しました。ところが翌年、中曽根総理は公式参拝を取り止めました。日本ではマスコミが中国の圧力に屈したと騒ぎましたが、中国の圧力ではなく、中国の政治情勢を慮(おもんばか)ったのです。参拝すれば保守派から攻撃を受け、胡耀邦体制が危険な状況に陥りかねなかったのです。良好な日中関係にひびが入ることは単に日中間の問題だけでなく、当時サミット国を中心に進めていたソ連の封じ込め政策にも影響します。参拝か日中関係か、日本の国益を考えた場合、答えは明らかでした。

中曽根、胡耀邦両首脳の友好関係から「日中友好二十一世紀委員会」が設立されました。ここでは日中間のさまざまな問題の調整が行われましたが、人間交流にも力を入れました。1983年に訪日した際、胡耀邦総書記は3000人の日本人を1週間受け入れる提案をしましたが、その後訪中した際に中曽根総理は毎年500人の受け入れを表明し、胡耀邦総書記の提案に応えました。こうして日中の相互信頼を醸成、強化する人間交流が行われたのです。

余談になりますが、2007年、中曽根元総理の訪中時に、当時上海市共産党委員会書記だった習近平現国家主席主催の晩さん会がありました。私も出席しましたが、その際に習近平氏が1枚の写真を取り出しました。写真は総理時代の中曽根氏と美しい女性のツーショットでした。すると習氏が「これは妻が大切にしまっている写真ですが、今日は借りてきました。私の妻は中曽根先生が提案された日中交流の500人の一人として訪日し、官邸で先生と一緒に写真を撮らせていただきました。妻はこのときの訪日の思い出を今でも時々懐かしそうに話します」。ご存知のように習近平国家主席の奥様は中国の有名な歌手でもある彭麗媛(ほうれいえん)さんです。

このときの中国訪問では、訪れた各地で「私もあのとき日本へ行きました」という多くの党幹部の方々に会いました。中曽根総理と胡耀邦総書記が蒔いた種が大きく育っているのを実感したものです。

中曽根総理が胡耀邦総書記と会談した際に、それまでは「平和友好、互恵平等、長期安定」という3原則に、中曽根総理は「相互信頼」というのを加えたいと提案しました。中曽根総理は「これからの日中間にはいろいろ問題が起こるだろうし、疑心暗鬼もあるだろう。しかし、互いに信じあってその信頼に応えるよう誠意を持ってやれば問題は克服できる」と。胡耀邦さんは目をまるくしながらも「それはいい提案だ」と賛成したそうです。それ以来、日中間の4原則になったわけです。この4原則がなければ、よくいわれる戦略的互恵関係など成立するわけがありません。

現在の日中関係を見れば中曽根、胡耀邦両首脳によって結ばれた4原則がまるで機能していないことがわかります。9月4日から中国の杭州で開かれたG20の会議でも日中両首脳の関係はよそよそしいものでした。両首脳が握手を交わしたバックには日中の国旗も飾られていませんでした。他国の首脳と握手する背景には必ず両国の国旗が飾られていましたから、明らかに日本に対しては違う扱いをしたわけで、両国間に「相互信頼」がないことをうかがわせました。ただ、翌日行われた首脳会談で、様々な分野、レベルで対話を進めていくことが合意されたのはよかったと思います。これが現実に実行されることを期待したいと思います。

確かに、現在の中国の国際法を無視した傍若無人ぶりは断じて許されるものではありません。日本も国家として毅然たる態度で臨み、主権と領土を守り国民の生命と財産を確保することは当然であります。

しかしながら、国家間において互いに疑心暗鬼になれば、些細なことでも、また僅かな誤解ですら危機的出来事に発展する事は歴史が証明しています。その危険を取り除くのが政治家の仕事であり、それは指導者同士がお互いにわかりあうことです。しかし、相互信頼は簡単に醸成できるものではありません。何よりも首脳同士が何度も何度も会い理解を深める必要があります。首脳同士がいがみ合っていれば両国間の関係が改善されるわけがありません。

更にアメリカと中国の問題も深刻です。お互いに原理主義の国ですから、行きつくところまで行ってしまう恐れがあります。このような場合に両国の間に入って交渉ができるのは日本です。日本はそのことも考えておくべきです。中国に対抗することも必要でしょう。しかし、次元を超えたところで共通項を探して共存共栄を図ることも大切です。

さて、その4原則の下、中曽根、胡耀邦時代は日中国交正常化以後で日中関係が最も良好な時期だったと言われています。しかしながら、長く続くことはありませんでした。改革路線や民主化、表現の自由、親日政策などが原因となり、保守派の巻き返しにあい1987年、胡耀邦総書記は解任されます。そして1989年4月、失意のうちに亡くなりました。その1ヵ月半後、胡耀邦氏の追悼集会が開かれたのをきっかけに多数の学生らが天安門広場に座り込み、民主化を要求したのです。党指導部はこれを動乱ととらえ、軍隊を投入して鎮圧しました。これが多くの犠牲者を出した第2次天安門事件です。これ以降、中国では胡耀邦の名前を口にすることはタブーとなりました。

では、現在はどうなっているのか?

2005年に胡耀邦生誕90周年の式典が、胡錦濤政権下で行われました。当時の胡錦濤国家主席、温家宝首相にとって胡耀邦氏は同じ「共青団」の先輩にあたり、2人とも氏の薫陶を受けた間柄でした。とりわけ温家宝氏は胡耀邦氏を師と仰いでいたといわれます。この時点で胡耀邦の名を口にすることはタブーではなくなりました。

また2015年には、胡耀邦生誕100周年の記念座談会が北京の人民大会堂で開かれ、習近平国家主席を始め党最高指導部の政治局常務委員が全員出席しました。そこで習国家主席は「偉大な革命家で政治家」と胡耀邦氏を讃えたのです。そして「実務的な政治姿勢を学ぶべき」と述べました。私が胡耀邦氏のお墓に行った際にも、週日にもかかわらず中国人の多くの方たちが墓参されていました。胡耀邦氏の名誉が十分回復されるとともに、その政治姿勢に対する評価が極めて高いことが分かります。


 

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北京市内レストラン

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歓迎の夕食会で飲んだ1991年12月製造の貴重なお酒

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江西省の省都である南昌市の空港

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ホテルの部屋からの南昌市内の風景を撮影

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ホテルの部屋から南昌市内の夜景を撮影

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胡耀邦(元)総書記陵墓の入り口

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共青城市(南昌市から車で45分:北の方向へ50km)

中曽根康弘元総理と私の名前で胡耀邦(元)総書記のお墓へ献花

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お墓を背にした風景

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胡耀邦(元)総書記の奥様、李昭夫人の書

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2006年4月15日(胡耀邦氏の命日:生誕90年)に、中曽根康弘元総理は日中友好の証として90本の桜の木を贈る

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敷地内にある胡耀邦(元)総書記の記念館

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滕王閣:唐の太宗の弟である滕王李元が建造

贛(カン)江と撫河が合流する場所に位置し、古来より黄鶴楼、岳陽楼、蓬莱閣と並び、四大名楼として有名である。653年、唐の太宗の弟である滕王李元が建てた楼で、主な建築は、宋代のスタイルを真似たものである。最上階からは南昌市内を一望でき、多くの文人がこの楼の上で詩を詠んだ。
一番美しい季節は秋で、“落霞與孤鶩斉飛,秋水共長天一色”という名句が残されている。現在の建物は1989年に再建されたもの。

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滕王閣から見た風景

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滕王閣の案内図

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8.1南昌革命記念館

1927年8月1日、周恩来、朱徳、賀龍ら中国共産党に指導された国民革命軍の一部は南昌で反蒋介石の狼煙を上げ、武装闘争による政権奪取の意思を初めて明らかにした。中国現代史上で重要な「八一南昌起義」(8.1南昌革命)である。中国人民解放軍の発祥の地であり、南昌は「英雄城」と呼ばれ讃えられている。1927年7月下旬、周恩来を書記とする共産党前敵委員会はホテルを借り上げて作戦会議を開き、8月1日の南昌武装蜂起では、この建物が総司令部となった。蜂起部隊は周恩来、朱徳、賀龍らの指揮で蒋介石派軍隊を襲い、4時間の戦闘後、南昌市内を占領した。3日後、蒋介石の差し向けた国民党主力軍に押されて山岳地帯へ退くが、この南昌蜂起は中国共産党が独自で指導した初めての武装闘争であり、後の人民解放軍創建の日となった。記念館内部は南昌蜂起の様子が再現され、会議室となった喜慶庁や、周恩来事務室などが公開されている。

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明時代の著名な書画家·八大山人の住居(現在は記念館)

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八大山人の作品

八大山人紀念館は、南昌市の南方にある。清朝初期、明の太祖朱元章の十世で著名な書画家、八大山人は明朝が滅亡したことに心を痛め、世間との関係を絶って禅僧になり、後に青雲譜の道観に隠居した。八大山人は青雲譜に籠もって数多くの書画を残し、その写実的な水墨画の画風は後世に大きな影響を与えた。今は記念館になっている。彼の書画などの作品が展示され、鳥や植物の味わい深い描写を鑑賞できる。
八大山人故居はすなわち青雲谱道院、南昌市郊6キロメートルに位置し、中国に最も早い建立した古代画家記念館。元は道院、1950年10月に八大山人記念館になった、敷地約1ヘクタール。明末清初著名な画家、書法家朱耷は(八大山人の名で知られている)ここに隠れている。現在、清代に改修された道観の内部は美術館となり、八大山人の残した百を越える書画が展示されている他、市民や学生の優秀作品なども飾られている。

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敷地内の石橋で。

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南昌市内にある「八・一大橋」

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北京市内にある雲南料理で野生キノコの料理店

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雲南省特有のキノコ

日本に生まれ育ち、一生を過ごしたいと言える「誇りのもてる国」
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