元参議院議員 田中しげる

しげるレポート | 田中しげるの活動報告ブログ

サミット成功の要諦
レポート 2025/06/09

6月15日から17日の3日間、カナダのカナナスキスでG7サミットが開催されます。

石破茂内閣総理大臣の初めてのG7サミットになりますが、中曽根康弘先生にとっての最初のサミットは、総理就任半年後の1983年、米国で開催されたウィリアムズバーグ・サミットでした。
サミットに出席している各国首脳の中では新参者であった先生は、ウィリアムズバーグに用意されていた各国首脳のコテージに出向きそれぞれの首脳へ挨拶に回りました。各国首脳とは和気あいあいとした雰囲気の中でのスタートでした。
しかしサミットの会議では、ソ連の中距離弾道核ミサイルSS−20の極東配備をめぐり、大激論が交わされたのです。

議長であるレーガン大統領は「核によるソ連の執拗な脅迫政策に対抗するためにはパーシングⅡの配備が必要である」と熱心に説きました。それに対しフランスのミッテラン大統領は「サミットは経済会議の場であり、政治声明を出す場ではない」と強硬に反対したのです。それに追随するかのように西ドイツ(当時)も反対し、会議はますます深刻な雰囲気になり、この問題は決裂かという険悪な流れになりました。
その時、中曽根先生は発言を求め「日本はNATOの同盟国でもなく、平和憲法と非核三原則を掲げているから、従来の方針ではこのような時は沈黙すべきである。しかし、ここで決裂して利益を得るのはソ連だけだ」と述べ、更に「ソ連がSS−20を撤去しなければパーシングⅡを展開して一歩も引かないという姿勢を示すことだ。いまや安全保障は世界的規模かつ東西不可分である。ソ連のSS−20配備撤廃のために西側が一致して、断固たる対抗手段を講じる声明を出すべきだ」と、ミッテラン大統領を説得したのです。
結局、フランスやドイツもアメリカに同調し、サミットの政治声明では、サミット構成国はソ連に対して不退転の決意で臨む意思を謳うことになったのです。
実は、この結束が、その後の東欧衛星国の独立、そしてソ連崩壊の引き金となったことは、あまり知られていません。

そのミッテラン大統領とは、1985年のドイツでのボン・サミットでも激しい議論をしています。
ミッテラン大統領は、官僚たちが決めたことを話すだけのサミットの存在意義を認めず、サミットの終幕を主張したのです。これに対し日本の立場からサミットの意義を主張し、翻意させたのが中曽根先生でした。
先生は「ヨーロッパの首脳たちはECやNATOの会合がある。近隣諸国ということもあり、いろいろな会議で話し合うことができるだろうが、遠く離れた日本はこのサミットの場がG7首脳との唯一の意見交換の場である。したがってサミットを止めることに大反対である。世界的にみても大損失となる。会議の運営を改善し、首脳同士の直接の話し合いで物事を決定していくようにしよう。“サミット”登山の”シェルパ”は登山家ではない。サミット各国の補佐官は”シェルパ”にすぎない」と述べて、ここでもミッテラン大統領を黙らせたのです。

東京サミットでは中曽根先生が議長を務めました。その時の声明文(宣言)の取りまとめ方について、以下のような話をされています。
「われわれ首脳たちが話し合ったことを”シェルパ”は声明文案として徹夜でつくる。それを議長のところに持ってくるのは朝8時頃で、会議は9時か9時30分頃から始まる。議長は英文の声明文案をある程度読み込んで暗記する。どのパラグラフにどういうことが書いてあるかを頭の中に入れておかないといけない。各国首脳は手を挙げては、何ページのどのパラグラフがどうのとか、移動しろとか、修正しろとか、そのような議論をして最終の声明文ができる」。

今回のカナナスキス・サミットでは、どのような形での首脳声明文が出るのか。
アメリカ以外のサミット参加国は、”法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序”を重視しロシアを非難し続けてきました。またトランプ大統領の関税政策はG7が重視してきた自由貿易の理念を無視し、G7結束の亀裂は至る所で出ています。
このような状況の中でますます覇権主義的傾向を強めるロシアや中国に利することなく、どのようなサミットの声明文が出るのか…。または個別の問題だけを発表するのみで、声明文は出せないのか…。

石破茂総理は官僚が作成した原稿をただ読むことなく自分の言葉で如何なる発言をするのか…。

一国のリーダーの強い意思を持った言葉、その言葉をつむぐ力が人々に共感を与えると思います。

ミッテラン仏大統領と(東京サミット)

ミッテラン大統領と握手

日本に生まれ育ち、一生を過ごしたいと言える「誇りのもてる国」
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