中曽根康弘先生はサミット会議の合間のコーヒーブレークでの会話が、各国首脳の考え方や本音を知る貴重な時間と捉えていました。
中曽根先生と各国首脳との話を紹介することにより、サミットの雰囲気も分かると思います。
米国レーガン大統領と中曽根先生の友情は「ロン・ヤス」とファーストネームで呼び合うほどの仲でした。ここでは彼以外の首脳について書きたいと思います。
先生によれば、世界情勢の認識に卓抜な能力を備えていたのは、英国・サッチャー首相とイタリアのファンファーニ首相だったと、以下のように語っています。
「サッチャー首相の愛国心はかなりのもので、トルコのダーダネルス海峡に架ける橋を受注する一件では、その工事を日本企業が請け負うと、サミットの開会前に私の席までやって来てこう言ったものです。『英国の勢力圏のダーダネルス海峡の橋まで日本が持っていくのはひどいじゃありませんか』と。私は『入札だから、仕方ないでしょう』と言いましたが、サミットの席上で、しかもいよいよ開会の時に、私に文句を言いに来るところは、さすが”鉄の女”だと恐れ入りました。
翌年、スリランカ(旧英国領でしたので)で発電所の工事を日本企業が受注した時には、色々手を尽くし話もして、日英のジョイントベンチャーにしました。次のサミットで、それを教えたところ、サッチャーさんは本当に喜んでいました。
ロンドン・サミットの時には、彼女から日本経済の強さの秘訣を尋ねられたことがありました。私は『ロボット開発とその大量使用にある』と産業自動化の話をしました。『あなたのお国では、ロボットといえば鉄でできた奇怪なフランケンシュタインのようなものを想像するかもしれないが、日本は多神教で、ロボットも兄弟のように扱います。正月や会社の創業記念日にはパーティーを開いて、工員はコップにビールを注いで〝兄弟、まあ一杯やってくれ〟といって、ロボットの上に置いたりします』と言うと、すかさず、『そんなときは、ビールでなくてスコッチ・ウイスキーにしてくだされない』ときたものです。
イタリアのファンファーニ首相は、ヴェネツィア・サミットでの議長ぶりは毅然たる物腰で、実に見事な手際でした。ある席上、私にこんな話をしてくれました。
『私は大学教授から政治家になったが、現実政治は教授をしていたときには想像もしなかった挫折と失望の連続だった。それで、政治家を辞めようと思ってローマ法王に相談した。すると法王は〝それはあなたの自由である。しかし、二つの道があるときは厳しいほうの道を選びなさい〟と言った。それを聞いて、もう一度政治に挑戦した。それが今の私を作った』
学者が政治家になることの難しさをこの言葉は実によく表わしています。同時に、ファンファーニの政治家としての思慮深い言動は、それを克服した時の学者型政治家の強みも体現していました」と、先生は文化的教養豊かな成熟した政治家の話をされたのです。

中曽根先生とファンファーニ首相ご夫妻と私”(ローマのご夫妻の自宅にて)
中曽根先生はミッテラン大統領ついては、「一神教や多神教、仏教とか禅について多くを語ったが、彼は政治的にも文化的にもフランスの化身のような人だった」と述べ、以下のような話をされています。
「『子供の頃、祖母から仏教の教えにしたがって、蚊といえども殺生はいけないと教えられた。祖母は、蚊が飛んでくると両手で包んで窓の外に逃がしてやった』と話すと、彼は『その蚊は、隣に行って人を刺すだろう』と反論してくるのです。
社会主義者にして、非常に頑固な国粋主義者。その意味で、ミッテランはドゴールの系譜に連なるゴーリストと呼んで差し支えない政治家でした」。
サミット会議のコーヒーブレークになると、だいたい二つのグループに分かれます。当時の分別では、米国、英国、ドイツの英語グループとフランス、イタリアなどのフランス語グループです。
中曽根先生やカナダのマルルーニ首相はどちらにも顔を出しました。先生は学生時代にフランス語を学んでいたので、ミッテラン大統領が率いるフランス語グループに混じって話すことがありました。先生がフランス語で話すと、ミッテラン大統領は非常に喜んでいたそうです。
各国の首脳同士の個人的な会話の積み重ねが、信頼関係の深まりとなり友情が築かれるという、いい例です。
先を見通せないイスラエルとイランの対立は中東情勢を極めて深刻かつ複雑なものとしています。混沌としているロシア・ウクライナ戦争、鉱物資源の安定供給構築やトランプ関税への対処等々、問題山積のサミットとなるでしょう
今回のサミットでのコーヒーブレークでは、果たしてどのような会話があるのでしょうか…?