元参議院議員 田中しげる

しげるレポート | 田中しげるの活動報告ブログ

歴史法廷の被告席に立つ政治家
レポート 2024/06/24

 第213回国会が閉会しました。

 岸田文雄内閣総理大臣が総理に就任して以来、次から次へと目まぐるしく出てきた不祥事の連続には、政治に対する失望感よりも絶望感すら覚えてしまいます。
 今回の政治改革では、1994年の政治改革で導入された政党助成金すなわち政党交付金が政策活動費として使われているのではと問題になりました。この問題は以前のFacebookでも取り上げていますので、ここでは割愛します。改正政治資金規正法は成立しましたが、この成立過程の各党の議論を聞く限り本質的問題を棚上げした茶番劇に見えます。自らを律することなく我欲に走ることに躊躇しない、今の政治家の問題意識の限界を感じざるを得ません。

 中曽根康弘先生は、「政治家は歴史法廷の被告席に立たされている」と常に言われていました。現在、その自覚を持って政治に臨んでいる政治家が果たして何人いるのか、先生は自著「日本人に言っておきたいこと」(PHP研究所1998年)で、次のように述べています。
「政治家にとって人生とは結果でしかない。思想家はその思索を膨大な著作に残すことができるであろうし、また作家は人間に迫る営みを作品という形で後世に問うことができる。さらに、時代と随伴するジャーナリストも、優れた時代考察は巷間に後々まで伝えられる。
政治家は残した現実のみが著作であり、作品である。その著作と作品は、読者の数によって評価されるのでなければ、凝らされた修辞の妙によって讃嘆されるものでもない。政治家の人生は、その所業の結果を歴史という法廷において裁かれるのである。
私は、幸いにしていくつかの書物を著す機会を得て、自らの政治生活の軌跡を述べることができた。……〈中略〉……それらの書物は、弁護人なき歴史法廷における当事者の自己弁護になるかもしれない。
だが、歴史の法廷は、私のささやかな自己弁護などをそのまま受け入れるとは思われない。歴史とは、私の意図などをはるかに超えた巨大なうねりであり、強大な力だからである。
人間は年齢を経るごとに、この巨大な強力な流れが自らの営為ではなかなか動かしがたいものであることを知る。知識と論理は、いやがうえにも歴史の不可抗性を教える。
しかし、歴史の法廷がどう裁こうとも、眼の前の現実に対処していかなければならないのが政治家である。その重責に立ち向かわせるのは、若き日の直観と、成熟により獲得した知恵であると、わが政治生命を振り返って思わずにはいられない」。
 歴史の法廷は、今回の岸田首相主導の政治改革についても時間の経過と共に厳しい判決を下すでしょう。

 ドイツの社会学者であるマックス・ウェーバー(1864~1920)は著者『職業としての政治』の中で、「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中がどんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても“それにもかかわらず(デンノッホ)!”と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への“天職”を持つ」と、有名な「デンノッホ」という言葉を残しています。
 中曽根先生の人生は、まさに「デンノッホ」の連続であり、先生にとって政治家は天職であったと身近にお仕えした者としてつくづく痛感しています。
 岸田首相には、「それにもかかわらず」と対処していく気概がまったく見られません。首相は一国の最高責任者です。すべての権力が集中します。日本国の総理大臣たらんとする者は、その責任の重さの覚悟を示してもらいたいものです。政治家は歴史法定の被告席に立っているのですから。

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