元参議院議員 田中しげる

しげるレポート | 田中しげるの活動報告ブログ

国葬を考える
レポート 2022/07/25

 安倍晋三元総理大臣の「国葬」(国葬儀)が、9月27日に武道館で行われることが決まりました。参議院議員選挙の応援演説中に、背後からの凶弾に倒れるという真に傷ましい事件でした。
 選挙は与党が大勝しましたが、その結果を受けるような形で、突然岸田文雄総理が故安倍元総理の国葬を発表しました。理由は耳を疑うものでした。首相の在任期間が過去最長であるとか、弔問外交が可能など、国葬とは全く関係ないことが理由に挙げられました。 
 戦後に行われた国葬は、1967年10月31日に武道館で行われた吉田茂元総理大臣の一例だけです。しかしこの時も、法的根拠となる国葬令は1947年に失効しており、極めて例外的な扱いとなりました。
 そもそも「国葬」の言葉を強いて用いるなら、天皇ご崩御の際に行われる「大喪の礼」だけでしょう。
 では、何故吉田茂元総理は国葬として送られたのでしょうか?それはひとえに戦後の混乱期に吉田茂が果した業績にあります。戦後の日本再建の基礎を築くと同時に、それを発展させ高度経済成長へ結びつけました。貧しい日本を豊かにして、世界に冠たる経済国家日本への足がかりを作ったのです。また1951年にはサンフランシスコ講和条約を結びました。この条約は翌年の4月28日に発効されましたが、これで日本は敗戦から続いた占領軍の支配より解放され、独立国として戦後の第一歩を踏み出すことになりました。吉田は今日の日本の基礎造りを行ったといえます。
 更には、二千年に及ぶ天皇制を守りました。吉田は、連合軍最高司令官のマッカーサーを始めとするGHQとの折衝を行い、天皇の地位を守る約束で新憲法を受け入れました。独立国家としての日本と、天皇制を守るという、戦後日本の国家的大事業を行いました。
 この様な歴史的業績を残した吉田茂ですら、その独善的だった政治手法については、60年経った今日においても評価が分かれています。

 因みに、2020年に行われた中曽根康弘先生(2019年11月29日没)の内閣・自民党合同葬は、総理を退任してから32年後に行われました。当時の各国首脳は殆ど鬼籍に入られ、更にコロナ禍でもあり弔問外交はありませんでした。
 それでも葬儀開催費は、約1億9000万円で公費負担が9600万円となり、「無駄遣い」との批判を受けました。政府からは、改装中の武道館が使用できないのでホテルでの葬儀となる旨の連絡がありました。その結果費用がかさみ、当然公費は税金ですから、かつて秘書だった者としては忸怩たる思いがありました。今回、武道館ならホテルより費用は掛からないでしょうが、国葬となれば2億円から3億円は必要といわれ、場合によってはそれ以上掛かるかもしれません。税金には異なる政党を支持し、異なる考えを持つ国民が納めた分もあり、それを遣って国葬を行うことに、多くの人が強い違和感を覚えるのは当然でしょう。

 日本は悠久の歴史から築かれた天皇(元首)という「権威」と、時代と共に変化する政治「権力」の二重構造で成立している国家です。
「権威」と異なり「権力」への評価は、歴史の流れの中で理解されてくるという、極めて時間が掛かる難しい面を持っています。たとえば時代によって評価が変わったりします。その様に清濁併せ呑む「権力者」の国葬を行うことは、一方で天皇の権威を損なう恐れもあります。なぜなら、前述のように天皇の葬儀である「大喪の礼」は、まさに唯一の国葬であるからです。

 中曽根康弘先生は「政治家の人生」について次のように述べています。
「政治家にとって人生とは結果でしかない。政治家は残した現実のみが著作であり、作品である。その著作と作品は、読者の数によって評価されるのでもなければ、凝らされた修辞の妙によって賛嘆されるのでもない。政治家の人生は、その所業の結果を歴史という法廷の被告席に立たされて、裁かれるものである」。
 歴史が裁くものを、わざわざ国論を二分させるような「国葬」の形で行う必要が、どこにあるのでしょうか? 答えは明らかです。

日本に生まれ育ち、一生を過ごしたいと言える「誇りのもてる国」
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