元参議院議員 田中しげる

しげるレポート | 田中しげるの活動報告ブログ

新年ご挨拶
2020/01/06

新年、明けましておめでとうございます。
本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

 昨年の晩秋、中曽根康弘元総理が亡くなられました。享年101歳。

 元総理は総理時代の1985年、国連にて「世界の平和と繁栄への貢献‐日本の決意‐」と題した、国連創設40周年の記念演説を行いました。その演説で「日本人の基本的哲学は、人間は宇宙の大自然の恩恵によって生まれたという考え方にある」として、自ら詠んだ

天の川 わがふるさとへ 流れたり

の句を披露しました。そして、「我々日本人にとって、宇宙大自然はふるさとであり、これとの調和の中で、生きとし生けるものと共存しつつ生きる・・・」と述べました。
 先生は天の川が流れる先、大宇宙のふるさとへ帰られたのです。

 先生の死後、総理時代の功績を紹介する記事をいろいろ目にします。昨年の12月25日には、外務省が1988年にソ連で行われた先生とゴルバチョフ・ソ連共産党書記長との極秘の会談内容を、公開しました。この時、先生はすでに総理を退任されていました。先生の北方領土の引渡し要求に対し、ゴルバチョフ書記長は「何とか何かを考え出さねばならない」と述べたという内容です。1956年に結ばれた日ソ共同宣言以降初めて、先生がその原点に戻るソ連の軟化を引き出したのです。ちなみに日ソ共同宣言では、歯舞群島、色丹島の2島返還が明記されています。
 その翌年の1989年1月にも三極委員会としてヘンリー・キッシンジャー(元米国務長官)、ジスカール・デスタン(元仏大統領)、デイビッド・ロックフェラー(ロックフェラー財団会長)の各氏と共に訪ソし、私も同行しました。三極委員会はロックフェラー氏が中心となり、1973年に「日米欧三極委員会」として、国際社会における自由主義の協同などを促進するために設けられたものです。
 先生はゴルバチョフ書記長との会談の際に、「ブレジネフ・ドクトリン」の存在を確認されています。「ブレジネフ・ドクトリン」とは「制限主権論」であり、社会主義国の連帯重視の原則です。1968年に「プラハの春」を謳歌していたチェコスロヴァキアに対し、ソ連が主導するワルシャワ条約機構軍が突然プラハに攻め入り、改革を押しつぶした例があります。
 「ブレジネフ・ドクトリンはまだ機能しているのか?」の先生の問いに対し、ゴルバチョフ書記長は「それは、もうない」と応えました。その返事を聞いて、先生は世界秩序が激変することを確信された様でした。実際、同じ1989年11月9日、ベルリンの壁は崩壊しましたが、ブレジネフ・ドクトリンは機能しませんでした。こうして世界は、各国が自らのアイデンティティを探す時代を迎えることになったのです。当時、極めて重要な位置付けになるブレジネフ・ドクトリンの存在を尋ねる人は殆どいませんでした。北方領土の返還という日ソ間の個別問題だけでなく、先生は世界の秩序、平和が、日本の平和にとって不可欠であることを常に考えられていたことを示す一例です。
 現在、イラン革命防衛隊の司令官などを無人機による攻撃で殺害したことで、イランと米国の緊張度合いが極限に達しつつあります。昔、オイルショックの時に、当時の中曽根通産大臣はキッシンジャー米国国務長官と対立し、さらに米国の立場の大平正芳外務大臣、外務省の反感を買いながらもアラブ寄りの政策を採り、大量のオイルを日本に持ち込み日本の国難的危機を脱しました。また、湾岸戦争前にイランのフセイン大統領と交渉し、日本人75名の人質を救出したことがある先生なら、この様な時に何をされるかを考えざるを得ません。
 
 3月15日には内閣と自民党による合同葬儀が行われるとのことです。
 総理時代から20数年間、秘書として先生に仕えた者として、先生の実像や先生が成し遂げられたこと、これからの日本について話されてきたこと等々、ご紹介していくことが、残された者としての使命ではないかと考えております。

日本に生まれ育ち、一生を過ごしたいと言える「誇りのもてる国」
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